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出島橋

  • 建物・施設

港の改修とともに架けられた、近代の鉄橋

幕末から明治10年代にかけて、長崎港は周辺河川から流れ込む土砂により深刻な閉塞状態に陥っていました。内務省の直轄による第1次長崎港湾改修事業が明治18年(1885年)5月に始まり、翌年からは中島川を出島の背後へ付け替える変流工事が行われ、かつて海に浮かぶ扇形だった出島は次第に陸地へと繋がっていきました。この改修事業の総仕上げとして、明治23年(1890年)、中島川河口付近の出島西側に近代的な鉄製トラス橋「新川口橋」が架設されます。設計・監督を担当したのは吉村長策氏。当時工部大学校で教えた米国人技師ワデルの講義に強く影響を受け、「鉄製プラットトラス」という橋梁形式を採用しました。当時の日本には堅牢な鉄橋を自国で造る技術が乏しかったため、部材はアメリカから輸入され、組み立てられました。地元紙「鎮西日報」には、日本土木会社が7000円で落札したことや、堅牢な鉄橋の誕生を待ちわびる地元の期待感が報じられています。


出島の東端へ、移り渡った橋

出島の東側には明治21年(1888年)、橋長33.33m、幅員5.49mの木鉄混交橋である初代「出島橋」が架けられていました。約20年後、路面電車の軌道敷設を見据えた「玉江橋」が中島川下流に架設されると、新川口橋は交通上の役割を終え、一時解体・保管されることになります。明治42年(1909年)11月24日の長崎市会で、この良質な鉄材を再利用して老朽化した初代出島橋を架け替える決議がなされ、明治43年(1910年)、新川口橋は現在の県庁裏門付近にあたる出島東端へと移築され、2代目「出島橋」として生まれ変わりました。橋名板に刻まれた「明治四十三年架」は、輸入・製造年ではなく、この現在地への移設年を示しています。


繊細な鉄の意匠と、確かな技術

移築後の出島橋は橋長36.7m、全幅5.5mの規模で、主要な接合部にピンを用いた「プラットトラス形式」という、日本における初期近代橋梁の貴重な遺構です。大きなボルトで締められた無骨な主部材と、リベットで精巧に繋がれた華奢な縦柱が組み合わさり、背景の空や川面が透けて見える繊細なシルエットを描いています。橋の上部両角には唐草模様の装飾が施され、明治期特有の古典的な情緒を今に伝えています。建設から1世紀を超えたこの橋は、現役の道路橋として日本最古の地位を築いており、昭和20年(1945年)8月の原爆投下による凄まじい爆風にも耐え抜き、現在も市道の一部として車や人々を運び続けています。


出島の記憶とともに、今を歩く橋

出島橋の河畔には、明治11年(1878年)建築の木造2階建て・旧出島神学校が川越しに見え、橋の鉄骨と柔らかなブルーで統一された外壁が、明治中期の長崎の空気を今に伝えています。この価値が評価され、平成15年(2003年)11月には土木学会の選奨土木遺産に、令和3年(2021年)2月4日には国の登録有形文化財に登録されました。出島はかつて約220年にわたり日本で唯一西洋との窓口であった和蘭商館が置かれた地であり、ケンペルやシーボルトらが活躍した歴史も残ります。出島橋を渡ることは、鎖国時代から近代化、そして戦禍を越えて現代へと続く、長崎の記憶を足元に感じる体験でもあります。

(2026年7月執筆)

PHOTO:写真AC

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