芦安堰堤
- 建物・施設
木を失った山と、繰り返された水害
明治6年(1873年)、山梨県知事となった藤村紫朗が甲府に県勧業製糸場を建設するなど蚕糸産業を興したことで、南アルプス山麓の木々は薪や木炭として次々と切り倒され、森林は荒涼とした禿げ山と化していきました。明治14年(1881年)には村人たちが共有していた山林が官有林へと編入され、生活の糧を奪われた住民による乱伐・盗伐も相次ぎます。山の保水力が失われた状態で明治29年(1896年)の豪雨に見舞われると、御勅使川流域で死者33人、全壊半壊家屋500戸という大災害が発生。さらに明治40年(1907年)の台風では山梨県全体で死者233名、流失・全壊家屋5767戸という県史上最悪の水害となりました。こうした苦難の中、明治15年(1882年)にはオランダ人技師エッセル・ムルデルが御勅使川などを調査して「富士川同川改修の意見書」を提出し、上流の山林保全と堰堤建設の重要性を説きました。翌明治16年(1883年)、これに基づき日本最初の直轄砂防事業が始まります。
重力式の上に、アーチ式を重ねて
当時の砂防堰堤はセメントを使わない「空石積」が主流でしたが、水害のたびに決壊を繰り返していました。度重なる流失の教訓から、内務省はコンクリートを用いた堰堤建設へと方針を転換し、大正5年(1916年)、御勅使川と富士川の合流点から12.2キロメートル上流の芦安字芦倉の地で、日本初の本格的コンクリート砂防堰堤「芦安堰堤」の工事が始まりました。着手時の調査では、既存の砂防堰堤78基中33基が大破、護岸35箇所中9箇所が大破という深刻な状況が記録されています。約2年の工事を経て大正7年(1918年)、堤高11.5メートルの重力式コンクリート堰堤が完成しましたが、その年の夏の出水で堆砂勾配が限界に達し、貯砂能力を失うという挫折を味わいます。技術者たちは両岸の強固な支持岩盤を活かし、大正13年(1924年)、既存の重力式堰堤を土台として、その上にアーチ式堰堤を継ぎ足す二重構造の嵩上げ計画を実行。接合部には鉄筋を格子状に張り巡らせる入念な補強が施され、大正15年(1926年)、堤高22.6メートル、堤長66.6メートルの、当時日本一の高さを誇る堰堤が完成しました。
静かな夜と、実り豊かな扇状地
堰堤の完成以降、大雨のたびに響いていた巨石が川底を削る重低音は消え、下流の芦安村の人々は静かな雨の夜を過ごせるようになりました。上流からの土砂がせき止められたことで御勅使川扇状地の環境は安定し、勝沼堰堤に代表される砂防堰堤群が、甲府盆地の豊かなぶどう・もも・すもも栽培を支える礎となりました。昭和34年(1959年)、相次いで山梨を襲った台風7号と伊勢湾台風(台風15号)による連続災害では、山梨県全体で死者・行方不明者89名(うち富士川砂防事務所管内では71名)にのぼる大惨事となり、これを受けて昭和35年(1960年)に富士川砂防事務所が設置され、近代的な防災体制が確立されていきます。
100年を超えて、今も生きる堤
建設から70年以上を経た平成9年(1997年)9月3日、芦安堰堤は国の登録有形文化財に指定され、土木学会からも「選奨土木遺産 御勅使川堰堤群」の代表格として認定されました。令和元年(2019年)に東日本を襲った台風19号では、御勅使川流域の観測所で日雨量534ミリメートルという猛烈な豪雨を記録。しかし、竣工から一世紀近くを経た芦安堰堤を含む砂防堰堤群は、その堅牢さで上流からの莫大な土砂をしっかりとせき止め、下流の決壊を防ぎ、地域住民の平穏な暮らしを守り抜きました。堤体表面には熟練の石工たちによる練石積みの化粧仕上げが施され、大正期の手仕事の美しさを今に伝えています。竣工から100年の節目となる令和8年(2026年)には記念イベントも開催され、自然の猛威に立ち向かった先人たちの物語が、未来へと受け継がれています。
(2026年7月執筆)
PHOTO:PIXTA







