生野銀山
- 建物・施設
大同2年の伝承から江戸の天領へ ― 生野銀山、統治の記録
生野銀山には大同2年(807年)に開坑したという古代の口伝が残されていますが、確実な文献上の初見は、1690年(元禄3年)に寺田豊章が編纂した『銀山旧記』とされています。戦国期の1542年(天文11年)、但馬国守護・山名祐豊が石見銀山から灰吹法を導入し、本格的な開発が始まりました。織田信長・豊臣秀吉は生野を直轄地とし、豊臣家掌握下の生野の銀は全国の銀の約80パーセントを占めたとされ、秀吉や家康の豊臣・徳川政権を財政的に強力に支えました。1598年(慶長3年)には初代生野奉行として間宮直元が任命され、江戸期には生野奉行が11代、その後代官に改組されてからは28人が務め、代官には旗本が任命されました。1716年(享保元年)、産出量の減少を受けて役職は生野代官に改められ、統治規模は初期の5万2千石から幕末の8万2千石にまで拡大しました。1863年(文久3年)10月には生野の変が起こり、生野代官所が一時占領されています。
明治維新と、フランス人技師コワニエの改革
1868年(明治元年)、生野鉱山は日本初の官営鉱山として近代化の道を歩み始めました。1867年(慶応3年)に薩摩藩の招聘で来日していたフランス人技師ジャン・フランシスク・コワニエは、1868年に帝国主任鉱山技師として着任し、火薬発破やフランス式の坑道補強技術を導入、経営方針を金銀鉱脈重視へと転換させました。1869年(明治2年)には明治新政府が設立した初の技術者養成機関である生野鉱山修学実験所が設立され、コワニエ自身が教授職を兼任しています。1876年(明治9年)には、生野から姫路・飾磨港までを結ぶ全長約49キロメートルの「生野鉱山寮馬車道」が開通しました。
播但一揆の惨禍と、落成式の涙
薩摩藩士・朝倉盛明は1868年9月28日にコワニエとともに生野を視察に訪れ、その後同年12月に操業を再開した鉱山司生野出張所の初代所長となりました。しかし直営化への反発から1871年(明治4年)10月14日に播但一揆が発生し、事務所や工場が焼き討ちされます。鎮圧後、朝倉は首謀者たちへの厳しい処罰を政府に要求し、断固たる処分が下されました。同年12月、コワニエは技術者集団を伴い再着任、復興を進めました。1876年(明治9年)5月23日、伊藤博文を主賓に生野鉱山器械落成式が挙行され、朝倉は建設経過の報告で感極まる場面もあったと伝えられています。
近代化と暮らし、そして都市鉱山への継承
口銀谷・奥銀谷は最盛期に総人口2万人を超える賑わいを見せ、危険な鉱山労働で命を落とした人々を弔う寺院が集まる寺町も形成されました。1895年(明治28年)には播但鉄道が開通し、1896年(明治29年)には経営権が宮内省御料局から三菱合資会社へ移り、社宅や病院、劇場が整備されています。精錬滓を固めた「カラミ石」は今も街の各所で石積みとして使われ、山神を祀る祭礼は「へいくろう祭」として受け継がれています。2014年(平成26年)3月18日、生野鉱山及び鉱山町の文化的景観は国の重要文化的景観に選定されました。1973年(昭和48年)の閉山後も、培われた製錬技術は現在、使用済み電子機器から金属を回収する「都市鉱山」の拠点として引き継がれています。
(2026年9月執筆)

トロッコと機械が、当時の採掘の様子を物語っています。

銀山とともに栄えた口銀谷の町並みが、今も残っています。
PHOTO:写真AC
明治の中ごろの生野銀山が舞台の長編恋愛小説です。
是非この機会に名作に触れてみてはいかがでしょうか。
VIDEO : Final Access ファイナルアクセス







