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海軍棒プール

  • 建物・施設

砂浜のない島に、上がるまで

南大東島は沖縄本島から東へ約360km離れた太平洋上にあります。周囲約21.2km、面積約30.53平方km。島の全周が鋭い珊瑚礁の断崖に囲まれ、砂浜が一切ありません。もとは約4800万年前にニューギニア沖の海底火山として生まれ、フィリピン海プレートに乗って移動しながらサンゴ礁を重ねて隆起した島です。中央部はすり鉢状に落ち込み、塩分を含んだ池とビロウ林が広がっていました。明治政府が標柱を建てて開拓を呼びかけたものの、荒波と断崖に阻まれ、6回の挑戦がいずれも失敗します。上陸が成ったのは1900年(明治33年)1月23日でした。60日余りの荒天の航海を越え、八丈島出身の23名からなる開拓団の船が、現在の西港付近の岩壁に接岸します。率いたのは、鳥島でアホウドリの羽毛採取事業を成功させた玉置半右衛門氏でした。

 

会社が島を持っていた時代

水のない土地でビロウ林を伐り、井戸を掘り下げる作業から始まった開拓は、3年後の1903年(明治36年)に年間産糖高7000貫を記録します。玉置商会は商店、学校、病院、郵便局まで自前で建設し、国の行政が直接及ばない「社有島」と呼ばれる企業統治を築きました。島内では日本の通貨ではなく大東島紙幣が流通し、島外への渡航も会社の管理下にありました。1916年(大正5年)、事業権と土地使用権は東洋製糖へ一括売却されます。500トン級の分密製糖機械が運び込まれ、サトウキビを工場へ運ぶ鉄道が島中に敷かれました。蒸気機関車の汽笛が響く風景が、島の日常になります。八丈島から移された言葉や習慣も根づき、丘の上の大神宮では秋祭りに太鼓の音が鳴りました。

 

吊り上げられて上陸した兵士たち

1944年(昭和19年)以降、島は沖縄本島を守る前進基地として要塞化されます。陸軍約3000名、海軍約1100名、合わせて約4100名が駐留しました。島民の数を大きく超える兵力です。同年8月29日に補給船が着いたときも岸壁に繋留できず、製糖会社のクレーンで兵士と物資を吊り上げて陸へ移しました。断崖の島の条件は、軍隊にも同じように働いたのです。珊瑚礁の岩盤には地下壕が掘られ、海岸の崖を利用したトーチカなど100か所を超える陣地が築かれます。兵士は鍾乳洞で暮らしましたが、内部は湿気がひどく、神経痛に苦しむ者が続出しました。翌年3月から艦砲射撃と空襲が始まり、6月10日には米空母4隻の艦載機が97.55トンの爆弾と46発のナパーム弾を投下します。これは作戦上の必要からではなく、開発中のVT信管付き爆弾とナパーム弾の効果を測る実証実験として行われたもので、住民ら少なくとも3名が犠牲となりました。

 

断崖の下にある、四角い水面

1944年(昭和19年)11月以降は海上封鎖で補給が絶たれ、島は孤立します。砂糖黍の茎を噛み、サツマイモの葉の煮汁を飲み、岩の凹みに残った海水の塩で飢えをしのぐ日々が続きました。終戦後、佐世保海兵団では南大東島へ渡った部隊は全滅したと伝えられていたといいます。接岸を拒み続けたこの断崖が、島の歴史をかたちづくってきました。現在、東海岸には断崖の岩をくり抜いて造られた海軍棒プールがあり、かつて上陸を阻んだ太平洋の荒波とつながる憩いの場となっています。砂浜を持たない島の人々が海に触れる、その水面を見に訪ねてみてはいかがでしょうか。

(2026年9月執筆)

きわめて美しいプールですが、水深が深い箇所もあり、波が高いときは遊泳禁止とのことです。現地では安全に最新の注意を払ってください。

PHOTO:写真AC

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