御嵩口駅 鉄道駅としての廃駅か
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東濃鉄道の終着地として歩み始めた御嵩駅の誕生
大正9年(1920)8月21日、新多治見駅から延びた鉄路の終着地として、初代の東濃鉄道による御嵩駅が開業しました。上之郷村の平井信四郎をはじめとする50名の地元有志が発起人として奔走し、多治見と御嵩を結ぶ悲願の鉄路が開通したのです。当時は蒸気機関車が約1時間10分をかけてのどかな風景の中をゆっくりと走り抜けていました。敷設の目的は人々の移動手段だけでなく、可児や御嵩一帯で産出される亜炭や薪、わら、木曽川の木材などを運ぶことにあり、地域の近代化と産業振興への熱い期待が込められていました。その後、大正15年(1926)9月24日に東美鉄道へ営業譲渡され、昭和18年(1943)3月1日には名古屋鉄道と合併し、現在の名鉄広見線の一部として歴史を紡ぐことになります。
亜炭輸送で活気に満ちた駅構内と労働者たちの記憶
昭和22年(1947)から昭和23年(1948)ごろにかけて、御嵩町は亜炭採掘の最盛期を迎え、町内には約100もの炭鉱がひしめき合っていました。炭鉱で汗を流す大勢の労働者たちが通勤の足として鉄道を利用し、朝夕の駅には活発な足音や明るい話し声が響き渡っていました。プラットホームからは黒々とした亜炭を山積みにした貨車が次々と出発し、物流拠点として力強い役割を果たしていました。昭和27年(1952)4月1日に路線が現在の御嵩駅まで約600メートル延伸されたことで、当駅は御嵩口駅へと改称されます。新設された御嵩駅が旅客専用であったため、亜炭などの貨物取扱いは引き続き当駅の広い構内で行われ、電気機関車が重たい貨車を牽引する姿や、旅客車に貨車を繋いだ混合列車が日常の風景となっていました。
時代の変革に伴う貨物廃止と無人駅への転換
昭和30年(1955)以降、エネルギー革命により石炭や石油への移行が進むと、亜炭の需要は急速に失われていきました。伊勢湾台風が猛威を振るった昭和34年(1959)ごろを境に貨物発送量も激減し、駅を包んでいた喧騒は少しずつ静寂へと変わっていきました。そして昭和38年(1963)度を最後に貨物取扱いは完全に廃止され、産業の要衝としての役目を静かに終えました。同年10月1日には駅員の配置がなくなり無人駅化され、かつて人々で賑わった立派な駅舎も後に姿を消すこととなります。かつて駅舎が建っていた敷地は現在、広々とした駐輪場として利用されており、往時の活気と比べるとどこか寂しげな風情を漂わせています。
一世紀の歴史を刻み穏やかな時が流れる鉄路への敬意
現在の旅客ホームは2両編成の電車が収まるほどの短い造りですが、使われなくなった旧貨物ホームとの間には今も3本の線路が敷けるほどの空間が残り、過去の繁栄を無言で語っています。平成20年(2008)6月29日のダイヤ改正で一部区間がワンマン化され、無人の出入口には自動券売機が設置されました。令和5年(2023)度の1日平均乗降人員は257人となり、今では穏やかな時間が流れるローカル駅となっています。令和2年(2020)8月21日には開通100周年という大きな節目を迎えました。中山道御嶽宿の史跡と調和しながら一世紀にわたり地域を支え続けた名駅舎の歴史が、これからも人々の記憶の中で大切に守られ、未来へと語り継がれることが願われます。
(2026年6月執筆)







