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目黒亭

  • 文化・教育施設

武士から大庄屋へ ― 目黒邸、成立の記録

戦国時代、会津の大名・蘆名氏に仕えた目黒家は、1590年(天正18年)に武士の身分を捨て、越後魚沼の広瀬郷に帰農しました。慶長年間(1610年代)には初代当主・善右衛門が上条郷15ヶ村の「肝煎役」に選ばれ、元禄年間(1690年代)には堀之内組の上条郷25ヶ村を束ねる「中庄屋」に抜擢されます。1755年(宝暦5年)、8代当主・五郎助が糸魚川藩領須原村の「割元役」に就任すると、目黒家は苗字帯刀を許される武士格となり、以後、糸魚川藩魚沼領23ヶ村の「大庄屋職」を代々世襲しました。1920年(大正9年)の記録では、目黒家は2郡6ヶ村にまたがる約165町歩(約163ヘクタール)の農地を所有し、325人の小作人を抱える豪農となっています。


雪国の知恵が支えた、大庄屋の主屋

現在の主屋は、1797年(寛政9年)、11代当主・五郎助によって建てられました。茅葺き寄棟造りで、桁行16間(約29メートル)、梁間6間(約11メートル)という規模を持ち、正面には入母屋造りの表中門が構えられています。積雪3メートルを超える荷重を支えるため、下屋と上屋を組み合わせた二重構造が採用され、天井には「叉首組」と「二重梁」という雪国特有の木造小屋組が用いられました。屋敷地には中蔵・新蔵をはじめ、籾蔵・米蔵・みそ蔵・醤油蔵・酒蔵などが立ち並んでいました。


近代化を推し進めた、明治期の橡亭

明治から大正にかけて、目黒家はJR只見線(旧国鉄只見線)の敷設のために私財と土地を提供し、地域初となる水力発電所の建設も主導しました。1901年(明治34年)には、主屋南側西端に接続する離れ座敷「新座敷(橡亭)」の建築が始まりました。正面9.2メートル、側面7.5メートルの2階建てで、寄棟造りの銅板葺屋根を持ち、明治期の近代和風建築として高い完成度を誇っています。


国指定重要文化財としての歩み

1955年(昭和30年)2月9日、主屋1棟が新潟県の指定文化財となり、1974年(昭和49年)2月5日には主屋・中蔵・新蔵の3棟と棟札・古図・家作用具買入帳が国の重要文化財に指定されました。1978年(昭和53年)5月31日には屋敷地4,513.8平方メートルが追加指定され、1993年(平成5年)4月20日には新座敷(橡亭)1棟、棟札、石動社(屋敷神)、宅地及び原野10,717.8平方メートルが追加指定されています。2004年の新潟県中越地震では主屋が被害を受けましたが、復旧工事を経て創建時の姿を取り戻しました。現在は新潟県魚沼市須原892番地に所在し、一般公開されています。

(2026年8月執筆)

池の水面には、大庄屋屋敷の長い歴史がそのまま映り込んでいるかのようです。

PHOTO:写真AC

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