恵美須ヶ鼻造船所跡
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海防の危機と近代造船への挑戦
嘉永6年(1853年)のペリー来航は、日本中に海防の重要性を突きつけました。長州藩では安政2年(1855年)に桂小五郎らが軍艦建造を建白し、藩主・毛利敬親が洋式軍艦の自力建造という困難な道を選びます。安政3年(1856年)1月、藩は船大工棟梁を伊豆の戸田村へ派遣しました。同年4月、ロシア流の技術を持つ指導者たちを伴って萩へ帰還し、小畑浦の「恵美須ヶ鼻」が造船の地として定められました。古くから北前船が寄港する風光明媚なこの場所は、近代化への第一歩を記す歴史的な舞台へと変貌を遂げたのです。幕末の動乱期、未知の領域へ挑んだ人々の熱意が、日本海を望むこの岬から沸き上がっていきました。
伝統と最新技術が交錯する活気
現場では伝統の和鉄と最新技術が融合し、巨大な船体を組み上げる勇壮な槌音が響き渡りました。48名の職人が寝泊まりする長屋には畳が敷かれ、指導者には専用の風呂が用意されるなど、人々の生活の息遣いも濃厚でした。蒸気で分厚い木材を曲げる熱気や、ロープ用のタールを焼く独特の匂いが、静かな漁村を近代工業の熱狂で包み込みます。それは、伝統的な地域社会が新しい時代の息吹を肌で感じた象徴的な光景でした。
時代の変遷と世界遺産への道
万延元年(1860年)にはオランダ式技術を採り入れた「庚申丸」が完成しますが、時代の主流が蒸気船へと移り、造船所は同年、静かに役目を終えました。平成21年(2009年)からの発掘調査では、ロシア式とオランダ式という異なる技術遺構が重なる奇跡的な発見があり、平成27年(2015年)には世界文化遺産に登録されました。現在は往時を物語る石垣の防波堤が、幕末の面影を現代の風景の中に静かに留めています。
先人たちの勇気に捧げる敬意
荒波の向こうを見据え、命を懸けて西洋技術を習得した先人たちの挑戦は、今の日本の礎となっています。恵美須ヶ鼻に佇むと、かつての喧騒と情熱が風に乗って聞こえてくるようです。この静かな入り江に刻まれた記憶を次世代へと語り継ぎ、未知の未来を切り拓いた勇気へ深い敬意を表します。自然と調和した産業の原風景は、これからも私たちの心に近代化の夜明けを灯し続けることでしょう。
(2026年2月執筆)

歴史ロマンあふれる造船所跡は現在でも多くのファンが足を伸ばす場所となっております。
PHOTO:PIXTA







