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奥只見ダム

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秘境に挑んだ戦後最大の水力開発

標高約1400メートル以上の源流から流れ出す只見川は、かつて両岸が険しく切り立ち、農業用水としての利用が極めて困難な峡谷でした。しかし戦後復興の機運が高まる中、1947年(昭和22年)3月に発表された計画により、総出力235万キロワットに及ぶ水力発電計画の根幹として、奥只見地方への巨大ダム建設構想が提示されました。水資源を巡り、福島県の本流案と新潟県の分流案が対立したものの、1951年(昭和26年)12月の特定地域総合開発計画の発表やアメリカ技術調査団の勧告を経て、1952年(昭和27年)5月に本流案の採用が決定します。そして1953年(昭和28年)7月28日、両県の知事が当時の首相官邸で握手を交わし、大事業が正式に動き出しました。


雪深き難所に刻まれた不屈の足跡

建設地は冬になれば積雪が5メートルに達する豪雪地帯でした。本格着工に先立ち、1953年(昭和28年)11月から越冬調査が開始され、隊員たちは氷点下20度近い酷寒の中で冬季仮建物に滞在し、調査を遂行しました。資材運搬のため、1955年(昭和30年)9月には現在の奥只見シルバーラインとなる専用道路の工事が始まります。雪崩から人命を守るため、全長22キロメートルのうち18キロメートルをトンネルとする土木工事が行われましたが、凍死などで多くの命が失われる過酷な現場環境でした。それでも3年の歳月を費やして1957年(昭和32年)11月に開通し、さらに25戸の家屋が水没するという大きな補償課題を伴いながらも、最大20箇所の現場が稼働する大規模な開発拠点へと姿を変えました。


時代を越えて躍動する巨大エネルギー

コンクリート技術や大型機械を駆使した工事を経て、1960年(昭和35年)12月に最大出力36万キロワットを誇る奥只見発電所が稼働を開始しました。そして1962年(昭和37年)6月9日、高さ157.0メートルという国内最大規模の重力式コンクリートダムが完成に至ります。長年の歩みの中で環境も変化し、湖では巨大化したイワナを守るため、1975年(昭和50年)に小説家の開高健氏らが「奥只見の魚を育てる会」を設立しました。2003年(平成15年)には河川維持放流を活用する新設備が稼働するとともに、発電出力が56万キロワットへ一挙に増強され、現在も日本のエネルギー需要を支え続けています。


尊き犠牲への哀悼と未来への灯火

このダムの建設事業全体では、117名に上る命が失われたという歴史があります。ダム湖を見下ろす小高い丘の上には電源神社が建立され、殉職者のための慰霊碑が設置されています。1974年(昭和49年)にスイスから持ち帰られたエーデルワイスの種子は、慰霊碑の前で現在も花を咲かせ、霊を慰めています。郷土を離れることになった住民の方々や、過酷な自然環境の中で工事に従事した先人たちの歴史は、奥只見の自然とともに現代へと語り継がれています。

(2026年6月執筆)

PHOTO:写真AC

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