記事上田池堰堤のイメージ画像

上田池堰堤

  • 建物・施設

渇いた大地と、水を求めた人々

淡路島南部を流れる三原川流域は、古くから平野が開けた農業地帯でしたが、山が浅く降水量も少ないという厳しい自然条件から、慢性的な水不足との闘いが続いてきました。明治42年(1909年)以前、三原川左岸の神代・市・榎列の3村では、わずか10日間雨が降らないだけで水が枯渇し、水を求める重労働に縛られた農民たちの中には、村を離れる者もいました。同年の耕地整理法改正を機に、3村の村長が連名で兵庫県へ実施調査を申請したことが、この地を大きく変えるプロジェクトの始まりとなりました。


計画変更を経て、辿り着いた技術

大正5年(1916年)に兵庫県の高松技師が設計書をまとめたものの、27万円という事業費の大きさに村人たちは決断をためらいます。さらに第一次世界大戦による物価高騰が追い打ちをかけ、計画は一時停滞しました。大正11年(1922年)、兵庫県の片岡技手が現地調査に奔走し、1,172人の組合員による耕地整理組合が結成されて計画は再始動します。しかし当初案の「高さ36mの土堰堤」は、決壊時の危険性への住民の強い懸念から着工が延期されました。この状況を受け、兵庫県耕地整理神戸出張所長は神戸市の烏原貯水池などを視察し、より強固な「粗石モルタル重力式ダム」への設計変更を決断します。大正14年(1925年)、下流住民の安全を最優先としたこの新設計が組合で可決され、農業用水用としては日本初のコンクリートダム技術が淡路島に導入されることになりました。


25万人の汗が築いた堤

大正15年(1926年)1月に着工した工事は、昭和7年(1932年)の竣工まで7年の歳月を要し、延べ25万人以上が工事に携わりました。工事費は幾度もの設計変更や物価高騰を経て約54万4000円に膨れ上がりましたが、堤体上部には補強材として古レールが埋め込まれるなど、安全への配慮も随所に施されました。堰堤は堤高41.21m、堤頂長131.06mの規模を誇り、湛水面積約10.1haの湖には最大約170万立方メートルの水が蓄えられています。厳しい資金事情の中でも、所長は構造物の美観にこだわり、切石の布積みや、市松模様に中抜きされたコンクリート高欄など、随所に意匠が凝らされました。この事業により、毎年米2,061石、麦540石という収穫増がもたらされました。


水を分かち合う知恵と、今に残る祈り

堰堤から放たれた水は、榎列方面へ5.07km、神代方面へ1.78kmの幹線水路を通じて各地へ届けられます。分岐点に残る「円筒分水工」は、水を全周から均等に溢れさせることで水争いを防ぐ仕組みで、その傍らには江戸時代から村人を見守ってきた「庚申塔」が今も佇んでいます。水路から直接田に水を入れるのではなく、一度地区の池に貯めて「水引き」と呼ばれる役目の人が各農家へ配分するという仕組みは、今も地域の暮らしの中に息づいています。水の安定供給によって定着した、稲わらを家畜の餌にし堆肥を作物に活かす資源循環型農業は、令和3年(2021年)に「日本農業遺産」に認定されました。平成20年(2008年)には土木学会の選奨土木遺産にも認定され、上田池堰堤は今も緑豊かな田園風景の中で、静かに命の水を送り続けています。

(2026年7月執筆)

その美しい佇まいは今なお多くの人々を魅了します。

PHOTO:PIXTA

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