橋野高炉跡
- 建物・施設
蘭学から生まれた鉄の炎 ― 大島高任と洋式高炉への道
1842年(天保13年)、17歳で江戸に留学した盛岡出身の大島高任は、箕作阮甫や坪井信道のもとで蘭学の基礎を学び、1846年(弘化3年)には長崎で高島秋帆の子・浅五郎から西洋砲術を修めました。1852年(嘉永5年)、大砲鋳造と熔鉱炉設計を記したオランダ人技師ヒュゲーニンの専門書の翻訳者・伊東玄朴に師事し、後にこの技術書『鐵熕鋳鑑』は大島が高炉建設の際に最大の拠り所とした一冊となります。1856年(安政3年)、水戸藩の反射炉で鉄製大砲の試作に成功したものの、砂鉄由来の銑鉄では強度不足が判明し、大島は磁鉄鉱を精錬する必要性を確信、日本最大級の鉱床を持つ南部藩領・釜石に着目しました。1857年(安政4年)12月1日、釜石市甲子町大橋に築いた日本初の洋式高炉で「初出銑」に成功し、1859年(安政6年)3月には操業が軌道に乗りました。
木炭の煙と水車の音が満ちた、橋野の山中
1858年(安政5年)、大島の指導のもと釜石市橋野町で仮高炉(後の三番高炉)の建設が始まり、周囲の山林から調達した木炭が炉の燃料として用いられました。1860年(万延元年)には一番高炉が完成し、1861年(文久元年)には二番高炉が加わり、鵜住居川の用水路沿いに複数の高炉が並ぶ製鉄所の景観が形成されます。高炉には、堝瓦から花崗岩に至る6重の耐火断熱構造が施され、用水路の水を受ける直径約5メートルの木製水車が送風機を動かし、炉内を高温に保っていました。大峰山の採掘坑から高炉場まで、鉄鉱石は牛と工夫の手で2.6キロメートルの山道を運ばれ、明治初期までに釜石地域には7箇所13基の高炉が建設され、1869年(明治2年)時点で総生産能力は約4500トンに達する重工業地帯へと発展しました。
官営釜石製鉄所の挫折と、田中製鉄所の再起
明治政府は1874年(明治7年)、官営釜石製鉄所の建設を決定しましたが、1880年(明治13年)9月10日の火入れからわずか97日後、火災による燃料不足で高炉は停止します。1882年(明治15年)の第二次操業も炉内閉塞という技術トラブルに見舞われ、同年12月18日、官営釜石鉄山は廃山となりました。1887年(明治20年)7月、民間商人・田中長兵衛が「釜石鉱山田中製鉄所」を創立し、1893年(明治26年)に野呂景義と香村小録が技術改良に取り組んだ結果、1894年(明治27年)11月、日本初のコークス高炉操業に成功します。この技術は1901年(明治34年)操業開始の官営八幡製鉄所へと引き継がれ、大島高任の長男・大島道太郎も技監としてその設立に携わりました。
世界遺産となった、日本最古の洋式高炉跡
2015年(平成27年)7月5日、橋野鉄鉱山は現存する日本最古の洋式高炉跡として、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にユネスコ世界文化遺産として登録されました。現在は国指定史跡として保存され、採鉱・運搬・製錬という当時の産業システムの全体像を今に伝えています。
(2026年8月執筆)

在りし日の営みを今に伝える貴重な史跡です。
PHOTO:写真AC







