第32軍司令部壕
- 建物・施設
首里の地下に築かれた要塞 ― 第32軍司令部壕、建設 of 記録
1944年(昭和19年)3月22日、大本営は南西諸島の防衛を統括する第32軍を編成しました。同月25日に福岡で組織立ち上げが行われ、4月2日に沖縄本島・那覇市安里の蚕糸試験場に司令部が置かれます。同年4月22日には南風原村津嘉山で最初の司令部壕の構築が始まり、8月10日には牛島満陸軍中将が司令官として着任しました。同年9月には読谷山村石嶺久得でも予備の指令所掘削が並行して進められています。10月10日の十・十空襲で那覇市街の約9割が焼失し、津嘉山の壕の地質が軟弱であったことも重なり、12月3日、軍司令部は首里城地下への移転を正式決定、翌 1945 年 1 月中旬までの移転を命じました。12月9日、首里城地下での壕の掘削が本格的に始まっています。1945年(昭和20年)1月10日、司令部は隣接する沖縄師範学校の校舎に一時移動し、同月21日に正式移転しました。
過酷な地下空間と、軍首脳部の攻防
1945年3月に本格使用が始まった壕は、直線距離約375メートル、総延長約1000メートルにおよぶと推定され、出入口となる坑口は5か所設けられました。換気用のシャフトAは地上まで18.3メートルの縦坑を持ち、内部には司令官室、参謀室、通信室、作戦室、救助室、寝室、炊事場などが配置されています。壁面には松の丸太の支保工と床板が使われましたが、常に泥水が滴り、3月23日の本格爆撃開始後は数千人がひしめく中で強い湿気と悪臭に包まれました。3月24日、長勇参謀長は壕の入口に「天ノ巌戸戦闘司令所」の木札を掲げています。2月15日発令の「第32軍戦闘指針」のもと特攻的な作戦方針が示され、5月3日には牛島司令官が総攻撃の訓示を下しますが、5月4日の総攻撃は大敗に終わり、翌5日に攻撃中止命令が出されました。同日、壕の統制を強化する「天ノ巌戸戦闘司令所取締ニ関スル規定」が定められています。
首里の陥落と、南部への撤退
3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸し、4月1日には読谷・北谷海岸へ主力部隊が上陸して地上戦が本格化しました。戦闘により円覚寺三門や中城御殿などの歴史的建造物が失われ、壕の真上にあった首里城正殿も破壊されています。5月22日、八原博通高級参謀の進言などもあり喜屋武半島への撤退が決定され、5月27日に首里要塞は放棄されました。撤退にあたり、米軍による利用を防ぐため壕の主要部分と坑口は爆破され、5月30日、司令部は津嘉山を経由して糸満市摩文仁へと撤退しています。この南部撤退により、軍と避難民が狭い崖やガマ(自然洞窟)で混在し、大混乱する事態が生じました。
摩文仁での終焉、そして戦後
沖縄戦における沖縄県民の犠牲者約9万4000人のうち、半数以上がこの南部撤退後の最後の約1か月間に命を落としたとされています。6月19日、牛島司令官は最後の命令を下し、6月23日(22日深夜説もあり)、牛島司令官と長勇参謀長が摩文仁で自決し、組織的戦闘は終結しました。戦闘終結後も住民は飢えやマラリアに苦しみ、9月7日、越来村森根で降伏文書の調印が行われています。現在、壕は崩落や土砂の埋没により内部への立ち入りは制限されていますが、首里城公園の地下に当時の生々しい爪痕を残したまま眠っています。2023年から2024年にかけての県の調査では、第1坑口付近などから松の丸太の支保工(柱)や床板が検出されました。2025年(令和7年)3月、沖縄県は壕内を15か所に分けた「第32軍司令部壕保存・公開基本計画」を策定し、一部公開に向けた取り組みを進めています。
(2026年9月執筆)
PHOTO:写真AC







