広島大本営跡
- 建物・施設
鉄道と港が、大本営を呼んだ
1894年(明治27年)8月に日清戦争が始まると、最高統帥機関の移転先として広島が選ばれました。理由は輸送でした。千田貞暁県知事の指揮により1884年(明治17年)9月から5か年をかけて築港が進み、1889年(明治22年)11月に宇品港が完成していました。開戦の2か月前、同年6月10日には山陽鉄道が広島まで延伸しています。さらに開戦の月には、広島駅と宇品港を結ぶ仮設軍用鉄道の宇品線が、わずか2週間余りの突貫工事で敷かれました。朝鮮半島や中国大陸に近いという地理に加え、陸と海の輸送路が揃ったことが決定打となります。同年9月15日、大本営は東京の皇居を出発し、広島城内の第5師団司令部庁舎へ移りました。この建物は1877年(明治10年)に本丸内へ建てられた洋風2階建ての木造建築で、もとは広島鎮台の司令部庁舎でした。
城内に議員が集まった秋
ここで行われたのは、戦時における陸海全軍の統率でした。明治天皇自らが広島へ赴いて全軍を直接統率し、皇族の有栖川宮熾仁親王が参謀総長として作戦の立案と上奏、勅裁の下令手続を司ります。御前会議には内閣総理大臣の伊藤博文氏、外務大臣の陸奥宗光氏、枢密院議長の山縣有朋氏らが列席しました。同年10月15日には城内で第7回臨時帝国議会が召集され、仮議事堂に全国から議員が集まります。政治と軍事の双方がこの城に集中した状態です。大本営が置かれたのは1895年(明治28年)4月の下関条約の調印までで、その後は京都と東京を経て、台湾鎮定後の翌年4月に解散しました。明治天皇の戦時行幸の足跡を伝えるため、1926年(大正15年)10月には「史蹟明治二十七・八年戦役広島大本営」として国の史蹟に指定されています。
建物を失い、指定も失う
太平洋戦争末期の城内は兵舎が足りず、天守の内部にも軍人が寝泊まりしていました。防空のため黒紙を巻いた裸電球の下、蚊帳を吊りゴザとわら布団で過ごす生活だったといいます。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、爆心地から約1kmの広島城の上空約600mで原子爆弾が炸裂しました。爆風と高熱により、大本営の建物は国宝の天守閣や周辺の兵舎群とともに完全に倒壊し、焼失します。城内の木造軍事施設群では約1万人の兵員が亡くなり、中国軍管区司令部に学徒動員されていた比治山高等女学校などの女生徒も多くが犠牲となりました。そして1948年(昭和23年)6月29日、文部省告示第64号により、全国377件の明治天皇聖蹟とともに、この大本営跡の史蹟指定が一括して解除されます。建物を失った3年後に、指定も失ったことになります。
礎石だけが残る本丸で
1953年(昭和28年)3月31日、文化財保護法に基づき、本丸と二の丸を含む内堀内側の国有地が、築城史上貴重な遺構として国史跡「広島城跡」に指定されました。明治天皇の事績を記念する枠組みではなく、城郭としての価値による指定です。大本営の建屋は失われましたが、土台の礎石群は今も残っています。城郭本来の価値とは異なるものの、近代の軍都の変遷と被爆の実相を伝える要素として、現在の保存活用計画に位置づけられています。城内には熱線で表面が赤く変色した石垣や、爆風に耐えて芽を出した被爆樹木も残ります。隣接する旧中国軍管区司令部防空作戦室は、2024年(令和6年)2月21日に「広島原爆遺跡」の一つとして国の史跡に指定されました。礎石の並ぶ一角を、訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)

かつてこの地で国の命運をかけた意志決定がなされていました。
PHOTO:写真AC







