【釧網本線】美留和駅 廃駅か
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原野の開拓と木材輸送を支えた美留和駅の開設
1930年(昭和5年)8月20日、国有鉄道の一般駅として釧網本線の美留和駅が開業しました。東釧路駅から79.2km地点に位置し、駅番号「B65」が付与されています。駅名および地名の由来には諸説があり、アイヌ文化研究者の更科源蔵氏が提唱した、裂けた山の川を意味するアイヌ語「ペㇾケイワナイ」の転訛説が国鉄の公式記録にも採用されたほか、湧水を表す言葉に因む説も伝えられています。この地域は近隣の硫黄山開発や開拓初期の入植活動を原点として発展し、駅の開設は基幹産業であった木材生産や製炭業の貨物搬出拠点として不可欠な役割を担いました。開拓民の生活物資の輸送や日々の往来を一手に引き受け、大正から昭和初期にかけて原生林が広がる原野に拓かれた地域社会の産業基盤を強固に支える交通の要所として機能しました。
行き違い設備と貨物側線を有した全盛期の構内変遷
開業後の美留和駅は、千鳥式の相対式ホーム2面2線の列車行き違い設備に加え、駅裏手の副本線や構内網走側に貨物ホームおよび引き込み線を備えた構造を有していました。初代木造駅舎は1953年(昭和28年)に改修が行われ、地域物流の中核として活用されましたが、昭和中期以降の道路網整備に伴って木材などの輸送需要がトラックへと転換していきました。この産業構造の変化を受け、1979年(昭和54年)7月15日に貨物取扱いが廃止され、側線設備が撤去されました。さらに1984年(昭和59年)の荷物取扱廃止と簡易委託化に伴い、旧下り線ホームが撤去されて現在の単式ホーム1面1線の棒線構造へと縮小されました。現在も線路の屈曲や旧ホーム跡地が構内に残されており、かつて木材を満載した貨物列車が行き交った往時の配線痕跡を今に伝えています。
車掌車駅舎への転換と美留和小学校児童による美化活動
1986年(昭和61年)、老朽化した木造駅舎の解体に伴い、国鉄時代末期に余剰となった車掌車を転用した待合室が設置され、いわゆるダルマ駅舎へと姿を変えました。旧駅舎の解体は一般入札により地元の建設会社社長が落札して話題となり、翌1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化によってJR北海道へ承継された後、1992年(平成4年)には完全無人化に至りました。合理化が進む一方で、駅施設は地域の手によって大切に維持されてきました。弟子屈町立美留和小学校の児童たちにより、2015年(平成27年)および2019年(令和元年)に駅舎外観の塗装作業が実施されたほか、待合室内には児童の研究発表や絵画が掲示され、花壇の手入れも続けられるなど、小さな鉄道空間に地域コミュニティの温もりが注がれています。
自治会による90周年誌の編纂と駅存続に向けた協議
2020年(令和2年)には美留和自治会が駅の開業90周年を記念し、開拓期の苦闘や駅と住民の関わりを記録した『美留和駅開業90周年記念誌』を編纂して歴史の継承を図りました。快速列車の停車駅に指定されるなど利便性維持が図られてきたものの、地域の過疎化に伴い2020年度(令和2年度)から2024年度(令和6年度)の5年間における1日平均乗車人員は2.8人にとどまっています。こうした利用低迷を背景に、2026年(令和8年)8月下旬、JR北海道は住民説明会にて翌春の駅廃止方針を提示しました。これに対し、同年9月7日の弟子屈町議会において弟子屈町長はJR側へ存続を要請する方針を表明しており、地域の暮らしを支えてきた駅の行方と今後の活用方針を巡って関係機関による協議が続けられています。
(2026年11月執筆)
PHOTO:写真AC

車掌車駅舎が見守るホームに、普通列車が静かに到着します。

どこまでも続く一本の鉄路が、澄み渡る北大地の大空へ伸びています。
PHOTO:写真AC







