十綱橋
- 建物・施設
藤綱の橋と、失われた渡し
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、すでに「藤の十綱」という名で摺上川に架かる橋の存在が記されています。文治5年(1189年)、奥州合戦の戦火が迫る中、大鳥城主の佐藤基治が敵の進軍を阻むためにこの橋を切り落としたと伝えられています。橋が失われた後、両岸を結ぶ手段は渡し船となりましたが、天保12年(1841年)の地誌『信達一統志』によれば、かつては両岸に10本の藤綱を渡し、その上に小木を並べて橋としていたことから「十綱の橋」と呼ばれたと記録されています。渡し船の時代、摺上川の洪水により牛馬や商人の荷物が流される被害がたびたび起こり、村人たちは苦労を強いられていました。
私財を投じた、二人の願い
明治5年(1872年)、地域の発展のために身を粉にして奔走した商人・熊坂宗兵衛と、盲目の按摩師でありながら架橋運動に深く身を投じた片平伊達一は、150円という当時としては莫大な私財を寄付しました。同年、当時の県令であった安場保和が穴原温泉で療養中、按摩に訪れた伊達一から川の不便さを聞いたことが事態を動かし、東京の吊橋をモデルにした新しい橋の設計を命じました。安場は熊坂と片平の献身を政府に報告し、二人に賞与が授与されています。明治6年(1873年)12月、木造の吊橋が竣工しましたが、翌年9月に崩落。明治8年(1875年)5月、県費により全長69メートルの木製の針金吊橋が再建されました。後年、伊達一が橋の無事と村の繁栄を願い自ら人柱になったという伝説が語り継がれていますが、これは歴史的確証のない伝承とされています。
鋼のアーチが、飯坂の空に架かる
大正4年(1915年)、近代化の波に乗って頑丈な鋼製アーチ橋が完成し、これが今日まで飯坂温泉のシンボルとして親しまれる十綱橋の姿となりました。全長52メートルのこの橋は「上路ブレースドリブアーチ橋」という構造を持ち、細い山形鋼が織りなす繊細なシルエットが特徴です。日本国内に現存する鋼製アーチ橋の中でも最古級であり、近代土木技術の黎明期を伝える貴重な存在として、土木学会の「推奨土木遺産」に選ばれています。昭和42年(1967年)の補修工事では、部材への補強プレート溶接という高度な技術により、建設当時の優美な姿が保たれました。令和2年(2020年)4月3日には国登録有形文化財に指定され、地域の誇りとして新たな光が当てられています。
湯けむりの町を、今も見守る橋
十綱橋の下を流れる摺上川沿いには、奥州の名湯と称される飯坂温泉が広がっています。江戸時代から明治にかけて、この地域は養蚕業が盛んで、上質な生糸を横浜港へと送り出す一大拠点として栄えました。福島市の中心にそびえる信夫山は信仰の山として親しまれ、飯坂町平野の医王寺には源義経の忠臣として名を残す佐藤継信・忠信兄弟の供養碑が静かに佇んでいます。戦後、機織りの音が止み桑畑が果樹園へと姿を変えた今も、十綱橋は湯けむり漂う飯坂温泉の町を静かに見守り続けています。
(2026年7月執筆)
PHOTO:写真AC







