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源太郎ダム

  • 建物・施設

土砂崩れと隣り合わせだった、白馬の暮らし

長野県北安曇郡白馬村の姫川流域は、糸魚川静岡構造線を境に東側はもろい新第三紀層、西側は崩れやすい古生層という、土砂崩れが起きやすい地質条件を抱えています。年間降水量は約1900〜2800ミリメートル、積雪深は約100センチメートルにも達し、雪解け水や豪雨が急峻な山肌を激しく削り取ってきました。明治44年(1911年)8月には稗田山で大規模な山体崩壊が発生し、押し寄せた土砂が川を堰き止めて天然ダムを形成。昭和9年(1934年)7月の大雨では平川の堤防が決壊し、当時の北城村に濁流が流れ込み、家屋の流出や床上浸水、田畑への土砂流入といった甚大な被害をもたらしました。


幾度もの被災を越えて、築かれた堰堤

水害に苦しむ住民の願いを受け、大正7年(1918年)に長野県による源太郎地籍での石堤工事が始まりました。昭和7年(1932年)からは農村振興砂防事業として本格的な源太郎砂防堰堤の建設に着手し、高さ5メートルの石張り玉石コンクリート造りの堰堤が築かれます。しかし完成直後の昭和9年の出水で被災し、既存の堰堤を副堰堤として、上流に高さ6メートルの新たな堰を築くという改修が行われました。昭和26年(1951年)には堤体を2メートル嵩上げし、昭和31年(1956年)から38年(1963年)にかけては本堰堤と第二副堰堤を設ける大規模改修が行われます。その工事中の昭和34年(1959年)9月26日、伊勢湾台風が白馬村を襲い、北城小学校が浸水し114戸もの家屋が被害を受けました。この災害を契機に昭和37年(1962年)、事業は国直轄の砂防事業へと格上げされ、着工から30年以上を経た昭和38年(1963年)、現在の源太郎ダム(源太郎砂防堰堤)が完成しました。


階段状に水を流す、巨大な防壁

完成した堰堤は、堤高20メートル、堤長235メートルにおよぶ巨大なコンクリートの防壁です。豊かな水量を階段状に流し落とす構造が、急激な土砂の堆積を防ぎ、水の勢いを和らげる役割を果たしています。下流に連なる砂防ダム群や護岸工、平川流路工と一体のシステムを成すことで、白馬の扇状地を守っています。平成7年(1995年)7月には総雨量582ミリメートルの豪雨に見舞われ、山間部の斜面崩壊により村内で50戸が被災したものの、扇状地での堤防決壊や氾濫は防ぎ切りました。平成29年(2017年)には過去最大となる総雨量987ミリメートルの豪雨に見舞われましたが、この時は被災家屋ゼロという結果を残しています。


安全とともに歩んだ、白馬の発展

堰堤の完成を境に、大雨のたびに響いていた警戒の半鐘の音や水防団の姿は村から消えていきました。氾濫の恐怖が去った扇状地では、みそら野地区や名鉄地区などでの別荘地やペンション群の開発が進み、荒涼とした土砂の原野は観光リゾート地へと変貌していきました。平成3年(1991年)には平川流路工の第一期工事完了を記念し、「はじめに砂防ありき」と刻まれた石碑が建立されています。現在、堰堤は背後にそびえる北アルプスの峰々と美しい対比を描くランドマークとなり、インフラツーリズムの舞台としても親しまれています。過酷な自然と向き合ってきた先人たちの歩みは、この巨大な堰堤という形で、今も白馬の大地に刻まれ続けています。

(2026年7月執筆)

PHOTO:PIXTA

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