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御坂サイフォン

  • 建物・施設

150年をかけた、水を求める願い

1771年(明和8年)、明石藩神出庄東村の住民が印南野台地への導水を志して始めた実測調査が、長い疏水計画の第一歩となりました。以後も福田嘉左衛門や藤本増右衛門ら地元の有志が計画を引き継ぎ、明治5年(1872年)には魚住完治が藤本を測量手として雇い、本格的な山田川疏水の測量に乗り出します。明治11年(1878年)には兵庫県令へ嘆願書が提出され、明治19年(1886年)には21ヶ村による「水利土功会」が結成されました。同じ明治19年4月、内務技師・田邊義三郎が山田川の地盤の弱さを見抜き、水源を淡河川へ変更し、志染川の谷を逆サイフォンで越える案を立案。翌明治20年(1887年)5月に予算調査と測量を経て正式に淡河川疏水案が決議され、明治21年(1888年)1月、起工式が挙行されました。


パーマーの知恵が越えた、鉄管の谷

計画変更後の設計を主導したのは、イギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーでした。内務省顧問として日本の近代インフラ設計に携わったパーマーは、当時主流だった重い鋳鉄管ではなく、薄く強靭な錬鉄製の送水管をイギリスのトマス・ピゴット社に発注します。輸送の困難さを解決するため、口径の異なる3種類の管を入れ子にして重ね、船便で運ぶことで運賃コストを大きく削減しました。志染川をまたぐ石造アーチ橋(眼鏡橋)は明治23年(1890年)に建設され、明治24年(1891年)4月11日には御坂サイフォンでの通水試験が一滴の漏水もなく成功。同月16日には20キロメートル先の練部屋分水所まで水が到達します。その後、各分水路やため池群の調整を経て、翌明治25年(1892年)5月、印南野台地の水田へ実質的な配水がなされました。


連結管の原理が支えた、明治の技術

「サイフォン」という名を持ちながら、御坂サイフォンは大気圧を利用するサイフォンの原理ではなく、上下流の水位差を利用したU字管による「連結管の原理」で自然流下する構造です。初代の送水管は全長752メートル、上下流水位差2.7メートル、最大水頭51.6メートルという規模でした。琵琶湖疏水や安積疏水が国費で建設されたのに対し、この淡河川疏水は地域住民が資金の多くを負担しようとした点に大きな特徴があります。国営「播州葡萄園」の開園に伴う用地買収代金(明治13年)も、地元住民の滞納地租を相殺することで事業推進を大きく支えました。


眼鏡橋とともに、今も残る技術遺産

初代の送水管は昭和28年(1953年)、老朽化により高強度の鋼管へと改築されましたが、歴史的に貴重な石造アーチの眼鏡橋は取り壊されることなく、わずか2メートル下流側にRCアーチ橋が新設され、新旧の橋が寄り添う形で今も生活道路として利用されています。平成17年度(2005年度)には土木学会の選奨土木遺産に認定されました。地域住民の結束と、パーマーをはじめとする技術者たちの知恵が結実したこの水路橋は、志染川の谷に今も静かに架かり続けています。

(2026年8月執筆)

歴史ロマンがつまった橋です。

PHOTO:写真AC

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