土倉鉱山
- 建物・施設
山奥に発見された銅鉱脈 ― 土倉鉱山、開発の記録
1907年(明治40年)、岐阜県安八郡の中島善十郎氏が滋賀県長浜市の土倉山で銅鉱石を発見したことが、この鉱山の始まりでした。1910年(明治43年)、田中銀之助氏が開発権利を買い取り、山中の「奥土倉」で採掘を開始します。1916年(大正5年)には事業が「田中鉱業株式会社」に移譲され、1934年(昭和9年)には日本窒素肥料系列の「朝鮮鉱業開発株式会社」(後のニッチツの源流)へと採掘権が移り、開発拠点は「土倉鉱場」と改称されました。
雪崩の悲劇と、出口土倉への移設
1939年(昭和14年)2月7日午後5時頃、記録的な豪雪の中、奥土倉の採掘拠点を大雪崩が襲いました。木造の飯場4棟のうち2棟が押し潰され、木之本町からの救助隊が駆けつけましたが、死者10人、重傷者8人、軽傷者2人という被害が出ています。この災害を受け、1940年(昭和15年)、拠点は奥土倉から国道303号線に近い「出口土倉」へと移設されました。この移設は、全長1.8キロメートルにおよぶ「通洞坑」の開削によって可能となっています。
山奥に築かれた近代的な集落
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)頃、戦時増産体制のもと従業員数は500人に達し、家族を含めると集落の人口は1500人にのぼりました。1956年(昭和31年)前後の最盛期には世帯数が400戸を超え、鉱山事務所、日用品販売所、共同浴場、診療所、理髪店、映画館、そして冬期限定の小学校分校まで整備された、山中の一大集落が形成されていました。
閉山、そして「滋賀のラピュタ」へ
1965年(昭和40年)、銅の輸入自由化による安価な外国産銅の流入と、鉱山内の鉱質低下が重なり、土倉鉱山は閉山しました。住民は山を下り、木造の社宅群や映画館、分校は風雪の中で朽ちて姿を消しています。一方、コンクリート製の選鉱場遺構は現在も残り、階段状の壁面に蔦が絡む姿から「滋賀のラピュタ」として知られるようになりました。2021年頃から観光客が急増する中、無断侵入による滑落事故が発生したことを受け、2022年10月、滋賀県の事業費負担により侵入防止用のフェンスが設置され、現在は外観のみ見学できる状態となっています。国道沿いには駐車スペースと歴史説明パネルが設けられ、地元団体が写真展の開催や周辺の森の保全活動を通じて、この近代化産業遺産を次世代に伝えています。
(2026年8月執筆)

蔦の絡む壁面が、往時の産業の記憶を伝えています。

格子扉の奥に、かつての坑道が静かに眠っています。
PHOTO:写真AC







