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志津木鉱山

  • 文化・教育施設

日本海の断崖に開いた坑口

志津木鉱山があるのは、萩市大字山田字小原。日本海の荒波が打ち寄せる断崖の裾にあたります。金属鉱山としては珍しく、山奥ではなく潮風の直撃する海岸線に鉱脈が露出していました。基盤となるのは白亜紀前期の下関亜層群で、そこへ後期の黒雲母花崗岩のマグマが貫入し、金属を溶かし込んだ熱水が割れ目を上昇して冷えることで、銅の原鉱である黄銅鉱の脈が生まれています。採掘が始まったのは明治の終わり頃、岩場での手掘りの試掘からでした。1917年(大正6年)から1941年(昭和16年)までは「玉江鉱山」として鉱区が設定され、太平洋戦争下の1942年(昭和17年)から翌年にかけて「志津木鉱山」へと改められます。戦後の1947年(昭和22年)には昌徳鉱業株式会社が操業を再開し、1949年(昭和24年)までの3年間に銅品位9パーセントの鉱石350トンを採掘しました。鉱石には銀も含まれ、1トンあたり60gから80gを記録しています。


鉱石を積んだ小舟と、笠山の煙突

坑口が断崖に直接開いていたため、掘り出された鉱石は陸路を通りませんでした。岩場に寄せた小舟へそのまま積み込まれ、波の荒い海を渡って越ヶ浜の笠山西側にあった精錬所へ運ばれます。この笠山精錬所を築いたのは、地元の技術者である都野豊之進氏でした。1881年(明治14年)に工部大学校の鉱山科を卒業し、1901年(明治34年)には山口県内で初めて採鉱冶金学の博士号を得た人物です。精錬所には地元産の安山岩を積み上げた煙突と、大人が立って歩けるほどの煉瓦造りの地下煙道が築かれ、西側には鉱石船を横付けする波止場が設けられました。運ばれた青緑色の石は、ここで炉にくべられて金属銅へと変えられていきます。


坑道を緑に変えた鉱物

この鉱山を特別なものにしたのは、海の近さでした。坑道が地表近くの酸化環境にさらされると、岩石中の黄鉄鉱が酸性水を生み、それが黄銅鉱を溶かして銅イオンをつくります。そこへ浸み込んだ海水の塩素が反応し、緑塩銅鉱とも呼ばれる二次鉱物アタカマ石が生じました。深みのあるヒスイ色の皮膜や結晶は、暗い坑道の岩壁や海岸の露頭を緑に染めたといいます。1986年(昭和61年)、この鉱物は秋月瑞彦氏、青木正博氏、坂巻幸雄氏によって日本鉱物学会で報告されました。標本は産業技術総合研究所の地質標本館に登録番号GSJ M18162として収められ、国立科学博物館の日本館3階でも展示されています。


台帳に残る名前

鉱山としての稼働は1960年(昭和35年)頃までに終わりました。現在、この場所は萩市教育委員会によって遺跡番号35「赤鼻(志津木)鉱山」として周知の埋蔵文化財包蔵地に登録されています。「赤鼻」は地形に由来する通称、「志津木」は鉱区の名であり、ほかに玉江鉱山、青長谷鉱山とも呼ばれてきました。ひとつの場所がいくつもの名を持つのは、短い期間に主体と呼び名が移り変わった小さな鉱区の来歴を映しています。萩ジオパークの地質・産業遺産としても位置づけられ、崖の岩肌は今も海の風を受けています。

(2026年9月執筆)

美しいアタカマ石は一見の価値がありそうです。

PHOTO:写真AC

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