Final 2013年12月頃 記事旧佐野社宅 解体/取壊のイメージ画像 History 80年

旧佐野社宅 解体/取壊

  • 建物・施設

鉛と亜鉛が支えた近代化の象徴と佐野社宅の誕生

細倉鉱山の歴史は古く、平安時代まで遡ると伝えられていますが、大きな転換期を迎えたのは三菱鉱業株式会社が経営権を取得した昭和9年(1934)のことでした。最新鋭の設備投資が行われ、日本屈指の鉛・亜鉛の供給拠点として急速に整備が進む中、労働者たちの生活の場として佐野社宅もまた形作られていきました。鉱山の最盛期にあたる昭和32年(1957)頃には、周辺の鶯沢町の人口は約13,500人を数え、社宅の路地裏には子供たちの快活な声が響き渡っていました。共同浴場や配給所では主婦たちの井戸端会議に花が咲き、背後にそびえる巨大なボタ山に見守られながら、鉱山とともに生きる活気あふれる町がそこには存在していたのです。

 

写真家の眼差しとスクリーンに蘇った昭和の原風景

この地で育った写真家の寺崎英子氏は、実家の売店から炭鉱町の人々の営みを見つめ続け、閉山発表後から約13,000カットものネガにその姿を焼き付けました。彼女の写真には、ツルハシを手に通勤する鉱員たちの足音や生活の匂いが鮮明に残されています。その情景は時を経て、平成19年(2007)公開の映画『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』のロケ地として選ばれる決め手となりました。劇中では主人公の母親が働く食堂「まるま屋」のセットが組まれ、かつて炭鉱夫たちが湯気の中で食事をかきこんだ活気が見事に再現されました。映画の舞台となったことで、失われつつあった昭和の原風景は、多くの人々の記憶に深く刻まれることとなったのです。

 

閉山による静寂と震災を経て進む解体の記録

時代の荒波に押され、昭和62年(1987)2月に細倉鉱山が閉山すると、社宅を満たしていた生活の音は消え、窓に板が打ち付けられた静かな風景へと一変しました。同年には住民の足であった「くりはら田園鉄道」も平成19年(2007)に廃止され、鉄道の記憶も草むらへと消えていきました。映画公開後はオープンセットとして一般公開され、多くのファンが郷愁を求めて訪れましたが、度重なる地震の影響で建物の老朽化が深刻化しました。その結果、歴史的価値を惜しまれながらも、平成25年(2013)に佐野社宅は解体の日を迎えました。かつての居住区は更地や道路へと姿を変え、物理的な遺構はその多くが姿を消すこととなりました。

 

近代化産業遺産としての誇りと未来へ繋ぐ記憶の装置

佐野社宅はその役割を終えましたが、平成19年(2007)11月には「細倉鉱山関連遺産」として経済産業省の近代化産業遺産に認定され、その功績は公に認められました。現在は「細倉マインパーク」や現存する洋風建築の総合事務所が、往時の威信を今に伝えています。また、平成29年(2017)頃からは寺崎氏の写真展が開催されるなど、モノクロームの中に息づく人々の熱量を次世代へ継承する活動も続いています。建物が消え、自然に還りつつある場所であっても、そこで懸命に生きた家族たちの物語は「記憶の装置」として輝きを失いません。激動の昭和を支えたすべての方々へ敬意を表し、この地の記憶が永遠に語り継がれることを願って止みません。

(2026年2月執筆)

映画などの撮影にも利用されてきました。

 

2000年頃までは地域のすべての建物で人々が生活されていたそうです。

 

人々の息遣いが聞こえるような美しい街並みは人々の心に永遠に記憶されそうです。

PHOTO:PIXTA

 

映画『東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~』は、リリー・フランキーの自伝的小説を原作とした2007年公開作品です。物語は、九州で生まれ育ち、東京でイラストレーターとして成功を目指す主人公「ボク」と、女手一つで彼を育てた「オカン」との絆を描きます。幼少期からの回想を交えながら、母親の献身や家族愛が繊細に紡がれます。東京タワーは物語の象徴として登場し、都会で夢を追う息子と故郷に残る母親との距離感を映し出します。

東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~

ロケ地の一つとして使用されました。​この旧佐野社宅は、昭和初期に建設された炭鉱住宅で、映画の中で主人公と母親が暮らす家として登場します。

 

同じ都道府県の記事

同じカテゴリーの記事

ファイナルアクセス会社サイトはこちら

残り日数で探す

記事ランキング※24時間以内

Final Access Books

注目コンテンツ これが最後です

都道府県から探す