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十勝川千代田堰堤

  • 建物・施設

大水害が動かした、治水の始まり

明治30年(1897年)、当時「蝶多」と呼ばれた池田町の千代田地区で、開拓者たちによる水田開発への挑戦が始まりました。明治32年(1899年)には地域初となる米の収穫を果たし、明治37年(1904年)の豊作を機に、泥炭湿地の広がる十勝平野に水田が急速に広がっていきます。しかし大正11年(1922年)8月、十勝川流域を襲った大水害が旧十勝川左岸から右岸一帯を濁流に沈め、これを契機に翌大正12年(1923年)、十勝川の近代治水事業が本格始動しました。同年には千代田地区への農業用水路も整備され、水田の風景はさらに広がっていきます。


泥炭地に挑んだ、技師たちの闘い

北海道岩内町生まれの斎藤静脩は、東京帝国大学で廣井勇教授に学び、明治44年(1911年)に北海道庁へ入庁。石狩川治水の岡崎文吉主任技師のもとで泥炭地盤の河川工学を体得し、のちに「十勝川治水の父」と呼ばれることになります。昭和3年(1928年)から昭和12年(1937年)まで帯広治水事務所長を務めた斎藤は、部下からの信頼も厚い人物でした。同じく昭和3年からは、洪水軽減と泥炭湿地の排水を目的とした「統内新水路」の掘削工事が着工され、北海道庁技師の池田一男や工藤学而らが約1,600万立方メートルの土砂を動かす難工事の設計を担いました。開拓期の暮らしは厳しく、白米のご飯はお盆や正月にしか口にできない特別なごちそうであったと伝えられています。


堰堤を襲った洪水と、二段化の補強

昭和7年(1932年)9月、新水路掘削で加速した水流による河床低下から取水を守るため、帯広治水事務所により千代田堰堤の建設が始まり、昭和10年(1935年)、長さ160メートルのコンクリート固定堰として完成しました。昭和12年(1937年)9月12日には、約9年をかけた全長約15.2kmの統内新水路にも水が通されます。しかし昭和50年(1975年)8月の大洪水で堰堤直下が激しく洗掘され、倒壊寸前の危機に。昭和51年(1976年)から翌年にかけて下段に副堰堤を設ける「二段落差工」への改築が行われ、右岸には魚道も新設されました。平成16年(2004年)には土木学会の選奨土木遺産に認定され、平成19年(2007年)には分流ぜきを備えた千代田新水路が併設されています。


十勝の穀倉地帯を、支え続けて

統内新水路の開通により、周辺の畑地面積はわずか約10平方キロメートルから約110平方キロメートルへと11倍に拡大し、流域市町村の人口も約10万人から約30万人へと膨れ上がりました。かつて泥炭に覆われた大湿地帯を切り開いたこの人工水路は、今では田園風景と山々に美しく調和し、十勝が日本有数の食糧供給基地となる礎を築きました。秋になると多くのサケが千代田堰堤を目指して遡上する光景も、この地に受け継がれてきた自然の恵みの一つです。令和5年(2023年)、十勝川の治水事業は本格化から100周年という節目を迎えました。

(2026年8月執筆)

PHOTO:PIXTA

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