記事丹賀砲台園地のイメージ画像

丹賀砲台園地

  • 建物・施設

廃艦の主砲を、山へ

太平洋と瀬戸内海を結ぶ豊後水道は、海上交通の要衝でした。1919年(大正8年)5月、この海峡への外敵侵入を防ぐため、佐賀関、高島、佐田岬を結ぶ線に海岸砲台を築くことが決まります。艦砲の射程が伸びたことへの対応として、1923年(大正12年)2月2日に要塞再整理要領が裁可され、鶴見半島の先端にあたる鶴見崎が第一線の拠点に位置づけられました。用いられたのは、艦の砲でした。1921年(大正10年)の軍縮条約で廃艦が義務づけられた際、主力艦の巨砲を陸上の要塞へ転用する構想が浮かんだのです。同年9月20日に老朽艦として廃艦指定を受けた巡洋戦艦「伊吹」の後部砲塔から、41式45口径30cm二連装加農砲が取り外されました。1926年(大正15年)8月に工事が下令され、同月1日には佐賀関に豊予要塞司令部が置かれます。着工は翌年6月16日、丹賀浦北方の標高50mの台地で、砲塔井の掘削が始まりました。

 

砲身重量60トンを、断崖へ据える

工事は難工事でした。主任官には陸軍工兵大尉の大久保禎三氏、備砲担当には砲兵中佐の奥野由郎氏が着任し、交通の便の悪い断崖での作業を指揮します。1930年(昭和5年)7月から砲塔の据え付けが始まりました。口径30.48cm、砲身の総長14.18m、重量は60,324kg。最大射距離は26,800mに達します。砲塔は左右それぞれ135度旋回し、高角35度から低角1度まで動かせました。地下には鉄筋コンクリートの弾薬庫と揚弾機室、退避と移動のための連絡坑道が張りめぐらされています。1931年(昭和6年)9月に竣工し、公称は鶴見崎三十センチ砲塔砲台、通称は丹賀砲台。豊予要塞重砲兵連隊第一中隊が配属されました。この一つの砲台が完成したことで、高島や日振島、大島に計画されていた砲台の築城が見直され、中止されています。翌年9月には鶴見崎の突端、現在の灯台の位置の地下に八八式海岸射撃員観測所が完成します。潜望鏡に似た測遠機で目標の方角と速度、距離を測り、地下の計算盤と電流計を経て、砲台の照準手へ角度を電気で伝える仕組みでした。

 

1942年1月11日

太平洋戦争の開戦から間もない1942年(昭和17年)1月11日、実弾射撃訓練の最中に主砲が火薬爆発を起こしました。衝撃で鉄製の砲塔と周囲の地下構造が破壊され、砲台は戦闘機能を一瞬で失います。竣工から11年目でした。この事故は軍事機密として厳重に秘匿され、真相は世間に伏せられました。殉職者や負傷者の正確な人数、爆発を招いた技術的な原因、事故後の処理の経緯については、公開されている資料では確認できません。ここに記せるのは、その日に爆発が起きたという事実と、それが長く隠されていたという事実だけです。

 

砲身井の底から

終戦にともなって機密の指定が解かれ、砲台の実態は少しずつ明らかになりました。現在この場所は佐伯市の指定史跡「丹賀砲台跡」であり、巨大な砲身井と地下の坑道群が保存され、丹賀砲台園地として公開されています。艦の砲として造られ、軍縮条約によって行き場を失い、断崖の台地に据えられて、一度の試射で沈黙した砲の跡です。周囲はリアス海岸の続く日豊海岸国定公園で、眼下には豊後水道が広がっています。砲身が収まっていた井戸の底まで降りて、確かめに訪ねてみてはいかがでしょうか。

(2026年9月執筆)

悲惨な爆発事故の痕跡を確認することができます。

 

戦争の悲しい歴史を今に伝承する貴重な場所と言えそうです。

PHOTO:写真AC

同じ都道府県の記事

同じカテゴリーの記事

ファイナルアクセス会社サイトはこちら

残り日数で探す

記事ランキング※24時間以内

Final Access Books

注目コンテンツ これが最後です

都道府県から探す