記事美唄炭鉱のイメージ画像

美唄炭鉱

  • 建物・施設

原始の森から現れた黒いダイヤと炭都の胎動

明治6年(1873)、榎本武揚が石炭開発の必要性を唱えたことから始まった美唄の歴史は、翌年のライマンによる調査で「黒いダイヤ」の存在が確かなものとなりました。大正4年(1915)に三菱美唄炭鉱が本格稼働を始めると、静寂に包まれていた山間の村は、昼夜を問わず続く採炭の熱気と喧騒に包まれるようになります。大正12年(1923)には道内屈指の規模を誇る高さ20メートルの赤い竪坑櫓がそびえ立ち、石炭輸送を担う美唄鉄道は東美唄方面の3万人を超える人々の貴重な生活の足として親しまれました。昭和19年(1944)には出炭量が250万トンを突破し、三菱と三井という二大財閥が競い合う国内有数の産業都市として、日本の近代化という大役を力強く背負い続けたのです。


街を彩る花々と炭鉱マンが愛した至福の味

「日本一きれいな炭鉱住宅街」と称えられた三井美唄の街並みには各戸に美しい花壇が設けられ、人々の憧れの的でした。仕事終わりの炭鉱マンたちは、香ばしい「美唄焼き鳥」や「とりめし」で空腹を満たし、休日には映画や観劇が楽しめる娯楽施設に心を躍らせたものです。子供たちの足音が響くマンモス校や、川をまたぐ渡り廊下を持った旧校舎に代わって建てられた斬新な構造の円形校舎など、そこには厳しい地下労働を支える家族の温かな日常と、街全体を包み込むような輝かしい活気が満ち溢れていました。


エネルギー革命の終焉と静寂に包まれた鉄路

昭和31年(1956)4月には人口9万人を超えた美唄ですが、エネルギー政策の転換という荒波に抗うことはできませんでした。昭和38年(1963)7月の三井美唄閉山を皮切りに、昭和47年(1972)4月には三菱美唄もその歴史に幕を閉じ、その翌月には長年愛された美唄鉄道も廃止されました。昭和48年(1973)8月に最後の炭鉱の灯が消えると、かつての喧騒は嘘のように消え去り、栄華を誇った炭都は静かな時の流れの中に身を委ねることとなったのです。


大理石の祈りに託す永遠の記憶と深い敬意

平成4年(1992)、旧栄小学校の敷地は彫刻家・安田侃氏の手により「アルテピアッツァ美唄」へと再生され、新たな祈りの場となりました。地底深くの暗闇で命をかけて国を支えた人々の献身は、今も大理石の温もりや森を渡る風の中に静かに息づいています。黒いダイヤの記憶を胸に、私たちはこの地が築き上げた歴史への敬意を忘れることはありません。炭都の鼓動は形を変え、未来へ向けて今日も優しく語り継がれています。

(2026年3月執筆)

 

在りし日の営みの記憶が呼び起こされます。

 

ご興味のある方は一度現地に足を運んでみてはいかがでしょうか。

PHOTO:PIXTA

当時の営みが記録されているようです。

炭鉱の理容所

永久保存版としてお手元に確保されてはいかがでしょうか?

 

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