郡司鋳造所
- 建物・施設
萩のデルタに灯った鋳物の炎と長州の防衛
寛永年間(1624年〜1643年)、初代長州藩主・毛利秀就公の命により、三田尻から招かれた鋳物師の郡司讃岐長左衛門信久が、萩城下の東外れにあたる椿東無田ヶ原に工房を構えたのが始まりです。松本川のせせらぎが聞こえる静かな地で、代々鉄や青銅を操る激しい炎の歴史が刻まれてきました。長年、鍋や農具といった民生品を手掛けてきましたが、嘉永6年(1853年)のペリー来航という時代の転換点を迎え、同年11月、藩はここを「藩営の大砲鋳造所」に指定します。和流の伝統技術と未知の西洋技術を融合させ、国防の要として数多くの巨砲を産み出したこの地は、まさに幕末長州の熱源そのものでした。
巨大な鐘に込めた祈りと職人たちの暮らし
藩の御抱え鋳物師として、貞享3年(1686年)に萩、正徳2年(1712年)ため、臨時に山口の常栄寺の鐘を吊るして間に合わせたという人間味溢れる逸話も残っています。発掘調査では、仕事の合間に愛用した煙管などの生活用品も見つかっており、平和を願う梵鐘造りと、国防のための大砲造りを両立させた職人たちの矜持と日常の息遣いを今に伝えています。
土の中から蘇った近代化産業の遺構
明治の夜明けと共に役割を終えた工房は土に眠りましたが、平成12年(2000年)から山口県埋蔵文化財センターが実施した発掘調査により、全貌が明らかとなりました。巨大な大砲を垂直に安定させるための深い木組遺構や、粘土製の「こしき炉」が当時の姿で発見されたのです。歴史的価値を保護するため、平成14年(2002年)には北東へ約50メートルの地点へ移築保存が行われ、現在は遺構広場として幕末の技術革新の凄みを静かに語り継いでいます。
時代を切り拓いた職人たちの執念に敬意を
生涯に130門もの大砲を鋳造したと伝えられる郡司右平次をはじめ、未知の西洋技術に挑んだ職人たちの熱意には敬意を表さずにはいられません。彼らが流した汗は、やがて日本の近代化という大きなうねりへと繋がっていきました。復元された石組や長州砲のレプリカを見つめる時、私たちは困難な時代を切り拓こうとした先人たちの不屈の精神を、未来へと語り継ぐ責任があるのだと強く感じさせられます。
(2026年2月執筆)

歴史を今につたえる貴重な遺跡です。
PHOTO:PIXTA







