千苅ダム
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千苅ダムの誕生と水道拡張の歴史
明治43年(1910)2月、武庫川上流の千苅溪谷に巨大な水源池を建設する計画が浮上し、水没予定地となった川辺郡西谷村の波豆集落には突然の知らせに驚きが広がりました。当時の神戸市は、明治39年(1906)頃からの急激な人口増加による深刻な水不足に直面しており、時間給水を余儀なくされる状態でした。明治41年(1908)4月から玉瀬村や生野村の一帯で実地調査が始まり、水量が豊富で清らかなこの地が新たな水源地として白羽の矢を立てられました。イギリスの最先端技術を学んだ佐野藤次郎氏の設計のもと、大正8年(1919)に重厚な石張りの直線型重力堰堤が完成しました。高さ36.36メートルを誇る粗石モルタル積みの堤体には、現存する日本最古の鉄製スライドゲートが17門並び、神戸の近代水道のさらなる発展を象徴する建造物となりました。
過酷な建設と人々の記憶が紡ぐ情緒
千苅から西宮市の上ヶ原浄水場へと至る第一期拡張工事は、全長約15キロメートルのうち約7900メートルを暗闇のトンネルが占める極めて過酷な暗渠工区でした。大正3年(1914)に始まったこの難工事には、他国から渡ってきた労働者も従事したとされ、険しい渓谷や硬い岩盤との格闘の中で多数の犠牲者や負傷者が発生しました。武庫川をまたぐ第一水道橋などの巨大な人工構造物が自然の中に築かれる一方、宝塚市の山野には「神水」と刻まれた古い石柱が今も苔生して佇んでいます。ダムの右岸には、自然の猛威に人間の知恵と汗で立ち向かった建設者たちの覚悟を示す「人助天」の石碑が建てられており、当時の過酷な現場の息吹と人々の記憶を現代に静かに伝えています。
時代の変遷と治水への新たな役割
大正10年(1921)3月に第一回拡張工事が完了したものの、第一次世界大戦後の好景気による需要増に対応するため、大正15年(1926)には早くも嵩上げ工事が着工されました。昭和6年(1931)の完成により堤体はさらに高くなり、より高く強固な姿へと生まれ変わりました。その後、昭和13年(1938)7月の豪雨による導水管寸断や、平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災での水道管破損といった幾多の災害を乗り越え、平成10年(1998)12月11日には国の登録有形文化財に登録されました。さらに、令和4年(2022)からは気候変動に伴う豪雨対策として、洪水期にあたる7月から9月の間に貯水位を制限水位からさらに1.0メートル下げる新たな治水運用の取り組みが開始されています。
歴史的遺産への敬意と未来への祈り
大正時代から令和の現代に至るまで、都市の発展と住民の命を支え続けてきた千苅ダムの存在は、日本の近代化を象徴する大いなる遺産です。現在もJR福知山線の道場駅から続くハイキングルートを歩けば、木々の合間から現れる石の要塞のような雄姿と、17門のゲートから紡ぎ出される美しい水のカーテンが訪れる人々を魅了しています。難工事に従事した人々の多大な労力と、自然に立ち向かった確かな足跡に対し、私たちは深い敬意と感謝の念を忘れてはなりません。この風格ある歴史的建造物が、今後も豊かな水を湛えながら地域社会の安全を見守り続け、その美しい景観とともに末永く後世へと継承されていくことが心より願われます。
(2023年7月執筆)
PHOTO:写真AC







