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三崎精錬所

  • 建物・施設

佐田岬に興った銅の時代 ― 旧三崎精錬所、操業の記録

愛媛県西宇和郡川之石地区で「伊予の銅山王」と称された実業家・矢野荘三郎氏は、佐田岬半島の先端、三崎地域への進出を果たし、1900年(明治33年)に旧三崎精錬所の操業を開始しました。精錬所では、採鉱・砕鉱・焼鉱・荒吹という江戸時代から受け継がれてきた伝統的な工程が踏襲され、操業期には20人から30人ほどの鉱夫や職人が集まり、槌の音が響き渡っていたといいます。三波川結晶片岩に含まれる含銅硫化鉄鉱を背景に、当時の佐田岬半島には合計43箇所もの銅鉱山がひしめき合っていました。1907年(明治40年)、精錬所は明治製錬株式会社に合併され、月間約40万貫もの銅鉱石処理能力を誇る佐島製錬所を中心とした、西宇和郡内の広大な製錬ネットワークの傘下に組み込まれていきました。


青石のアーチと、煙が招いた対立の記憶

斜面に築かれた22基の焼窯は、地元で「青石」と親しまれる緑泥片岩を用いた直径約0.9メートルの均整の取れた半円形アーチを焚口に持ち、石積み職人たちの高い技術を今に伝えています。しかし精錬の過程で排出される亜硫酸ガスには浄化装置がなく、周辺の段々畑で育てられた農作物に深刻な被害をもたらしました。この煙害に対し、生活を脅かされた地元住民らの怒りはついに限界に達し、精錬所への襲撃という実力行使にまで発展しています。こうした激しい住民運動と、時を同じくして起こった銅価格の急落、不景気も重なり、1908年(明治41年)、稼行からわずか8年で精錬所は操業停止(閉鎖)に追い込まれました。一方で、合併先となった佐島製錬所などでも、この1908年(明治41年)以来、麦作への被害をめぐる農民と会社側との間で激しい損害補償交渉が幾度も繰り返されることとなります。


海を越えて残る近代化遺産の数々

長らく山林の中に埋もれていた遺構は、2003年(平成15年)12月1日、496平方メートルにおよぶ石造りの精錬遺構として国の登録有形文化財に登録されました。同じ日には、豊予要塞建設の資材陸揚げに使われた旧正野谷桟橋や、大分県佐賀関との間を結んだ海底電話線の陸揚室(旧平磯水底線陸揚室)も、それぞれ精錬所と並んで登録されています。1914年(大正3年)には久原鉱業による大規模製錬所誘致が検討されたものの水不足などから対岸の佐賀関に建設されることとなり、1919年(大正8年)以降、佐田岬の鉱石は海路で佐賀関へ運ばれるようになりました。今も精錬所周辺の海岸には、黒く輝く鉱滓(からみ)が散在し、当時の産業活動の痕跡を静かに伝えています。


海峡を見つめ続けた産業と人々への敬意

1965年(昭和40年)の高浦鉱山閉山をもって佐田岬半島の銅山の歴史は幕を閉じましたが、精錬所跡に今も残る青石のアーチや、周辺の阿弥陀池、白砂の海岸に広がる穏やかな風景は、かつて煙害に揺れたこの地の記憶を静かに包み込んでいます。金属を求めて汗を流した鉱夫たちと、それに翻弄された農民たちの双方の歴史に、敬意をもって向き合いたいものです。

 

(2026年8月執筆)

在りし日の営みを今に伝える貴重な場所といえそうです。

PHOTO:写真AC

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