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明延鉱山

  • 建物・施設

飛鳥の伝承から国家直営へ ― 明延鉱山、開坑の記録

兵庫県養父市の明延鉱山は、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養に用いられた銅がこの地から献上されたという伝承を持ち、809年(大同4年)に開坑したと語り継がれています。江戸期には「明延銅山」と呼ばれ、幕府直轄の鉱山社会では町名主にあたる役職を「加奉」と呼ぶ独自の慣習がありました。1872年(明治5年)、明治政府は明延・神子畑・中瀬を生野鉱山のもとに統合し官営鉱山としましたが、1889年(明治22年)には宮内省御料局の所管となり、1896年(明治29年)には三菱合資会社へ経営権が移管されています。1908年(明治41年)にはズリ石からタングステンが発見され、翌1909年(明治42年)4月27日には東京帝国大学で明延の鉱石から錫石が確認され、明延は「日本一の錫鉱山」への道を歩み始めました。


架空索道から明神電車へ、輸送の近代化

1914年(大正3年)9月、明延と神子畑を結ぶ全長5,750メートルの架空索道が建設され、1918年(大正7年)には神子畑での採掘が休止し、明延が採掘、神子畑が選鉱を担う分業体制が確立しました。1929年(昭和4年)、明延と神子畑を結ぶ全長3,937メートルの明神隧道が完成し、軌間500ミリメートルの鉄路が敷かれます。1941年(昭和16年)には軌間762ミリメートルへと拡張され、1945年(昭和20年)には従業員とその家族を運ぶ客車運行が始まりました。1949年(昭和24年)には運賃50銭で乗車制度が始まり、客車「くろがね号」が製造されています。1952年(昭和27年)、運賃は一律1円に定められ、1985年(昭和60年)までの33年間据え置かれたことから「一円電車」として親しまれました。同年には自走式客車「白金号」も完成しています。


4000人が暮らした山あいの町

昭和30年代の最盛期には、明延鉱山周辺に人口約4,000人、世帯数約1,200戸が暮らし、明延小学校には約780人の児童が通っていました。採掘された鉱石は神子畑で選鉱された後、約26キロメートル離れた生野鉱山の精錬所へ運ばれ、錫インゴットとして製品化されています。地域には明延病院や協和会館といった医療・文化施設、北星社宅と呼ばれる木造長屋が整備され、坑夫たちは山神宮に安全を祈り、第一浴場で一日の疲れを癒やしていました。


閉山から、探検坑道と一円電車の復活へ

1985年(昭和60年)11月に一円電車の運行が終了し、1987年(昭和62年)3月、円高による海外資源への市場流出を背景に明延鉱山は閉山しました。掘削された坑道の総延長は550キロメートルに及びます。1989年(平成元年)、旧世谷通洞坑を利用した「明延鉱山探検坑道」が開業し、廃校となった旧明延小学校校舎は「あけのべ自然学校」として再生されました。2010年(平成22年)10月には全長150メートルの周回軌道が敷設され、実車の「くろがね号」による体験乗車会が行われています。2020年(令和2年)3月には「くろがね号」「白金号」「赤金号」を含む計8両の車両が兵庫県指定文化財に指定されました。


近代化産業遺産、そして日本遺産へ

2007年(平成19年)11月30日、経済産業省は生野・神子畑・明延鉱山の遺産群を「近代化産業遺産群33」として認定し、探検坑道や明盛共同浴場が構成遺産となりました。2017年(平成29年)4月28日には、養父市を含む播但地域6市町の「播但貫く、銀の馬車道、鉱石の道」というストーリーが、鉱山関連遺跡として日本初の日本遺産に認定されています。

(2026年8月執筆)

在りし日の営みの記憶です。

PHOTO:写真AC

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